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新規ビジネスを創る 
ビジネスの共通語としての法的思考

中外製薬株式会社 事業開発部課長 井上亮

井上亮 中外製薬株式会社 事業開発部課長
慶應義塾大学院卒業(理学修士)。JPモルガン、ソシエテ・ジェネラルでトレーダーとして勤務。退職後、東京都立大学法科大学院卒業。2009年新司法試験合格、2010年弁護士登録、2011年から現職。

企業への就職

 6年前、司法修習を終えて、しばらくして現企業に就職することにしました。いくつかの複合的な理由がありますが、(1)採用にあたり弁護士資格だけではなく過去の実績を人事上評価してもらえること、(2)アドヴァイザーとしてではなく当事者として仕事がしたかったこと等が主な理由でしょうか。

事業開発部

  事業開発部での勤務を前提に採用されました。製薬会社の事業開発部とは、自社の開発品を他社に対してライセンス許諾し、他社の開発品の自社へのライセンス許諾を受け、他社との共同開発・共同販売提携をし、ヴェンチャ企業への投資や自社資産の事業譲渡をする際の、企画・デューデリジェンス・契約交渉およびそのアライアンスマネジメントをする部署です。投資銀行の経験が役に立つ部署であったので、ありがたく引き受けました。

私の仕事

 ライセンス案件にしても投資案件にしても、自社、業界、グローバル・ビジネス環境についての深い理解がなければ優良な企画ができませんので、法務に限らず広範な情報収集、検討を重ね、さまざまな経営の要求に合致するビジネスソリューションを提供します。製薬業は、人体に直接的に作用(および副作用)する製品の提供を仕事としております。このため、社内各部には医師、薬学博士など高度な専門性を有する社員が多数配属されています。1つのプロジェクトを開始すると、基礎研究から開発、製造、販売、学術、行政対応など各分野の専門家20名以上をとりまとめるプロジェクトリーダーを務めます。製薬業は開発品の成功確率が極めて低いことでも知られています。平均3万個に1つの化合物だけが、十数年に渡る(動物および人体)実験を乗り越えて、はじめて患者さんの手元に送り届けられます。私はこれらのプロジェクトを15件程抱えていますが、その多くは様々な理由でとん挫するため、入れ替えも頻繁です。

法務の素養

 プロジェクトリーダーとしての仕事は必ずしも法務の素養が必要なわけではありません。しかし、各分野の専門家であるチーム員から提出される詳細なデューデリジェンスレポート(法務、知財だけでなく、化学、安全性、製造その他もろもろの評価報告書)に基づき、タームシート案、契約書案にこれらのリスクヘッジ手段を盛り込んで、相手方との交渉に臨むことになります。ディールの終盤に法的な能力が最大限に生かされます。
 私の場合は、プロジェクトリーダーとしての仕事以外にも、一部弁護士としての仕事もしています。特に製薬業は、他の製造業に比べると桁違いに少ない特許で自社の資産を保護しているため、知的財産の防衛の成否は死活問題です。大企業の訴訟案件は、高度な専門性を有する先生にお願いすることが多いと思われます。しかし、厳しい規制業界である製薬業の案件には、直接的な問題となる知財法や一般企業法、商取引法等の他に、各種業法、当局の通達や諮問委員会の答申等が複雑に絡み合っています。いつまでにどのような決着を得ることが企業価値を最大化するのかは、特定分野の専門家である先生にお任せするのではなく、企業内でシミュレーション・分析・評価をして、訴訟戦略をコントロールする必要があります。
 数は少ないですが、行政との交渉も行います。製薬業では、当局の指示は絶対であるとの社員の意識が非常に高いと思われます。通達等を所管する部署には豊富な経験を有する模範的な元営業マン等が配属されることが多く、通達を文字通り、非常に謙抑的に解釈し社内あるいは業界のコードを形成してゆきます。しかし、必ずしも根拠法に遡ってその趣旨が議論されているとは言えません。患者さんの命を救うため、時には当局と真摯な交渉をすることも必要と考えます。

企業の国際化

 規模の大小を問わず、今日の企業は海外との取引なしでは存続できません。ご承知の通り国際取引における共通言語は今のところ英語です。わたしも仕事の半分は英語の業務です。問題は、英語が、単にコミュニケーションツールだというだけではなく、取引の前提、すなわち契約の準拠法を英米法とすることが圧倒的に多いということです。大陸法の企業同士が、単に弁護士へのアクセスが容易であるとの理由でニューヨーク州法を契約の準拠法として採用する事は珍しくありません。異言語間のコミュニケーションの障壁は数年以内に人工知能が解決してくれるでしょう。日本法の弁護士に必要なのはTOEICではありません。大陸法系で最大の経済力を有する日本法を積極的に展開し、ビジネスの場で大陸法を活用しやすくする努力こそが必要なのではないでしょうか。
 弁護士の就職難から司法試験合格者数を引き下げる議論が活発ですが、そのような議論は、日本法をニッチでオリエンタルなものへと引きずりおろす視野の狭い議論です。法科大学院の教育は、旧来主要科目とされてきたいくつかの受験科目について、決まった思考パターンを鍛え上げる方向にますます進んでいるようです。しかし、ビジネスが弁護士に必要としているものは何でしょうか。修習生は、商事仲裁の重要性に気が付いているでしょうか。IncotermsやCISGの役割を認識しているでしょうか。世の中が何を期待しているのかということを知らずして、適切な教育を施すことができるのか、今一度見直してみる必要がありそうです。

弁護士として生きるのか

 私が契約交渉する相手は、事業開発担当者やリーガル・カウンセル、ヴェンチャ企業であれば取締役やCOOであったりします。彼らのバックグラウンドは様々です。事業開発担当者は元研究者であることも多いです。しかし、契約交渉の場に出るわけですから、LL.M.とMBAの資格を両方取得している人も珍しくありません。
 結局、ビジネスの世界では、英語、MBA、そして法的思考法というのが(たとえば数式や音符のような)共通言語であり、これらの言葉を使って議論、交渉することが円滑な取引を促進させます。MBAと言っても学位を取る必要はありません。書店にはMBA教科書の日本語版が選びきれないほど並んでいます。一方で、法的思考法の独学はやや難しいかもしれません。日本の法科大学院制度も、弁護士資格取得のための養成所としてではなく、海外ロースクールのように、ビジネスの即戦力を養う場として時代に敏感な教育プログラムを用意することで、活気を取り戻せると思います。
 弁護士であることは、どんな仕事をしていても大きなアドヴァンテージになります。しかし、それはビジネスマンに必要な素養の一つであるということなのです。世の中には様々な専門性を持った方々がたくさんいます。必ずしも学者になれるわけでもなく、生活が保障されているわけでもありません。大学院で数学を研究した経験から言えるのは、司法試験は大学受験の延長であって、学問的研究とは全く次元が異なるということです。弁護士はビジネススキルの一つであるという割り切りを持つことができれば、日本の弁護士の活躍の場は飛躍的に広がるであろうと思います。

法を勉強したのはどこですか?
 法科大学院です。
いちばん使っている法律は何ですか?
 民法です。
いま気になっている法律はありますか?
 GDPRです。
仕事は楽しいですか?
 楽しい仕事を作り出す努力をしています。
法とは何でしょうか?
 世界のビジネスマンと話す共通言語です。

(法学セミナー2016年9月号10-11頁に掲載したものを転載)

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