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私が考える法律(学)
福島の山村での出来事を例にして

弁護士 足立龍太

足立龍太 弁護士
1984年生。東北大学法学部卒、中央大学法科大学院修了。福島県弁護士会所属。足立ほか「避難地域の医療・福祉にみる復興の課題」除本ほか編著『原発災害はなぜ不均衡な復興をもたらすのか』(ミネルヴァ書房、2015年)。

法律(学)の人間味

 法学部に入学したのは、一つのニュースがきっかけでした。それは、刑事裁判の判決言い渡し後に、裁判官がさだまさしの「償い」という曲の歌詞(ぜひ読んでみてください)を引き合いに出して説諭をし、被告人らに真摯な反省を促したというニュースでした。法律というと「こういうときはこうなります。」というような、上から目線の堅苦しい世界なのかなと思っていたのですが、真面目に人と向き合おうとするその姿勢に、なんだか人間臭い部分を感じ興味をもったのです。
 そんな思いで法学部に入学したのですが、いざ入ってみると理解力(というよりも努力)不足で、「こういうときはこう。」ということを覚える作業ばかりのように思えて退屈でなりませんでした。
 ところが、3年次に出会った行政法教授のおかげで、その意識が大きく変化します。教授は、「行政行為」などの基礎概念の研究がご専門だったようで、法律概念をどのように定義するかということについて非常に情熱的に講義してくださいました。なぜ教授がそこまで「定義」に情熱的になれるのか、むしろ聴講しているこちらが考えさせられてしまうような講義でした。ここでわかったことは、「法律概念一つとっても、一旦、自分の頭で考えてみていい。」ということでした。
 法律概念は、人が整理のために作ったものですから、勿論、物理化学現象のように、実験によって証明できるような唯一無二の絶対解はありません。そもそも理屈付けようとする対象の法制度自体が人工的な(揺れ動く)ものですから、「説明のしやすさ」「共感の呼びやすさ」などで妥当性を議論していくことになります。その議論で大事になってくるのは、制度をどう理解するかです。教授はこれを「ものの見方」と言っていました。
 この「ものの見方」がどう表れているのかに注目して勉強してみると、無機質に見える学説の世界も、実は人間味あふれる世界のように感じられ、面白くなっていきました。
 つまり、議論を所与のものとして覚えるのではなく、議論を通して「ものの見方」を身につけることが、法律の勉強だったことにやっと気づいたのです。

街弁の仕事

  私は、これまで説明したような法律(学)の人間味に惹かれて、今の職業を選びました。実務に入ると、より実感は強くなり、法律を扱っているというよりも、直接人間の問題を扱っているというような感覚です。法律コンサルタント的な面だけでなく、むしろそれ以上にカウンセラー的な役割も求められているようなケースが多いように感じています。
 今、私は、ある弁護団に所属していて、福島県内のとある山村の人々の損害賠償請求のお手伝いをしています。原発事故が発生し放射能が拡散してしまったために、正常な日常生活の維持・継続が長期間にわたり著しく阻害されてしまったから、その精神的損害を賠償して欲しいというものです。
 日常生活の維持・継続が阻害されているのであれば、精神的損害に対する賠償は認められるということになっています。問題は、どういう場合に日常生活の維持・継続が阻害されているというべきかです。これまでの事例の積み重ねや和解仲介機関の基準等で、例えば、長期間避難継続を余儀なくされた場合などの認められてきた類型はいちおうあります。しかし、それは解決指針であって、それだけしか認められないという訳ではありません。
 弁護団では、どのように日常生活が阻害されてしまっているのかということについて、現地に赴き住民から聞き取り調査をしました。私も参加して、直接住民の方から話を聞いたところ、こんな意見に出会いました。
「私は、この地域で、普段、山に入ってきのこや山菜を採ったり、イノシシを捕まえたり、自分で作った野菜を採ったり、釣りをしたりしながら生きてきました。ところが、原発事故が起こってからはそういう訳にはいかず、自分が食べるものをお店に行って買ってこなければいけなくなりました。それが一番残念でなりません。」
 言われたとき、私は、この方が何を残念がっているのかよく分かりませんでした。食べ物は買ってくるのが当たり前だし、費用がかかるにしても、その分自分で採ってきたりする手間がなくなるのだから、「何かを大きく失った」ということはないのではないか。私も、よくスーパーに行って買い物をしますが、特段、行くたびに悔しさを感じたことはありません。強いて言えば、あれもこれもあって悩んでしまうというくらいです。
 そこで、率直に自分の感想をぶつけて聞いてみると、その方はこう言うのです。
「『商品化』されたものを食べなくちゃいけなくなったのが、悔しい。山から自分で選んで採ってくるからこそ、『いただきます』『ごちそうさま』と言って食べていた。それが全て失くなってしまったのだから、大変な問題なのです。」
 皆さんは、この意見をどう思うでしょうか。「非常に特殊な考え方であって、全然分からない。」と片付ける方もいるかもしれません。しかし、現地では「よく分かる。」という人がけっこう大勢いらっしゃいます。そうすると、街の弁護士としては、この声を強く訴え、少なくとも議題になるようにしたいところです。
 そこで、どう考えるかです。まじめに人と向き合うこと、「ものの見方」を表現することが、法律の世界の人間味です。この場合、「分かる人」と「分からない人」の両者に理解してもらえる考え方(言葉)がどこかにあるのではないかと、探すことが取り組み方と考えます。
 山村に暮らす方にとって、「自分で採って食べる」という行為は、決して栄養を摂取するというだけの意味を持つのではないのだろうと思います。まず、自分が食べるものを主体的に自分で決めることの喜びというのがあると思います。さらに、自然の恩恵を受け、自然から承認されている(自然によって生かされている)ことを実感し、これによって平穏な心を維持できているという面もあると思います(実際に、避難生活によって精神的な問題を抱えるようになった方は多数います)。
 このように、言葉をあてがうということは、評価を加えるということです。評価を加えるということは、自分との接点を見出す作業です。真面目に人と向き合うことであるし、自分の中に「ものの見方」の形成していく作業でもあります。そういう意味で日々「ものの見方」を形成させる実感をもてることが、この仕事の醍醐味だと思います。

おわりに

 法律の仕事に携わるということは、言葉を発見する仕事に就くことです。法律の制定も法律の解釈も法律の適用も全て言葉を発見する営みだと思います。しかし、人を納得させたり、共感を呼ぶことが出来る言葉というのは、なかなか出てきません。
 素直な気持ちで人の話を聞くことがまず大前提ですが、それに加えて、助けられたり裏切られたり失敗したり成功したりの様々な人生経験や、人を思いやる気持ちなどに裏打ちされていると、言葉は説得力を持つのだろうと思います。
 そういう意味で、法律はずっと勉強・修練していくことが出来る学問だと思いますし、その価値がきっとあります。

法を勉強したのはどこですか?
 学部、大学院そして今も勉強中です。
いちばん使っている法律は何ですか?
 基本六法、破産法、労働法、消費者法などです。
いま気になっている法律はありますか?
 刑事訴訟法等の改正などです
仕事は楽しいですか?
 自分が成長できる楽しい仕事です。
法とは何でしょうか?
 無機質なようでいて非常に血が通っているもの。

(法学セミナー2016年10月号10-11頁に掲載したものを転載)

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